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きょうの舞台裏

京都の出版社 京都通信社のスタッフブログです。本の制作から出版までの道のりを同時進行で配信しています。
<< 11月21日 | main | 11月12日〈等持院に撮影の許可とあいさつ〉 >>
11月11日〈重森三玲の石像寺「四神相応の庭」を撮影〉
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    朝6時半に、三明氏を重森三玲庭園美術館に迎えに。準備の都合もあって、こちらは4時起き。4×5と6×7のカメラに、デジタルカメラ。いくつものレンズに三脚を積んで、いざ出発。五条通に出てそのまま西に。五条通は国道1号線と交わるところから国道9号線に。かつての山陰街道である。向かうは、福知山市の南に位置する市島町にある石像寺。早朝のことだからと、亀岡市を過ぎたところで京都縦貫道を降りて一般道に。フランス人のエマニュエルくんに丹波路の自然と地理を見せておきたいという配慮でもある。
    その亀岡市にある平山城丸亀城は明智光秀の居城であり、光秀が夜陰にまぎれて本能寺の信長を攻めたときのルートが山陰街道で、亀岡盆地と京都盆地とを老ノ坂(おいのさか)峠の峡谷がつなぐ。都を荒らす酒呑童子が住んでいたのがこの麓の大枝。京都府北部の大江山は、夜な夜な都に通うには遠すぎる。
    亀岡を過ぎると園部。ここにも城が現存する。櫓門・巽櫓などは江戸時代からのもの。ほかは焼失ではなく解体したというから残念。かつての城内は園部高校の敷地になっている。園部を過ぎて京丹波町の須知にはいると、そこは山城。美しい琴滝もあって、山中に平地と池があるなど不思議な空間をつくる。その先の福知山城もまた美しいし、東京青山の地名の由来となった青山さまの居城であった篠山城も美しいが、さすがに省略する。
    紅葉のはじまった丹波は、いまだに茅葺きの民家が点在し、品質の高いマツタケの産地として知られる丹波高原は、丸みをおびた低い山が優しい自然をつくる。どんどんと話は脱線するが、歴史的景観も自然景観もとにかくすばらしいのが丹波。明治の廃藩置県で、京都と兵庫に分割されるという悲劇を味わう。天皇のいなくなった京都、未来を拓く港湾都市神戸がともに豊かなヒンターランドを必要としたからだという。
    市島町にはいりバイパスを走りはじめると、石像寺の場所はすぐにわかった。山の中腹に白く輝いて鎮座する巨石の姿が見える。重森三玲が庭づくりの原点とした磐座(いわくら)である。かつては、樹木に隠れてほとんど見えなかったというが、重森三玲は「このあたりの石倉という地名は、磐座に由来している。石像寺の名も、本来は石蔵寺であるべきものである」というように書いている。地元の人もこの分析に驚き納得したという。
    石像寺は、曹洞宗のお寺で、永平寺で修業されたご住職に出迎えていただいた。禅堂をそなえた立派なお寺で、参道も趣に富んでいる。本堂の裏手の斜面には江戸中期のりっぱな庭が残る。向かって左手にはやはり江戸後期の池をうがった庭が静寂で穏やかな姿で横たわる。かなり出来のよい庭と見受ける。
    ところが、その本堂の前庭は、すべてが三玲の具象的な「四神相応の庭」。玄武、白虎、青龍、朱雀、それぞれをイメージして石が組まれている。庭全体を四つに分け、そこに黒、白、赤、青の小石を敷き詰め、そこに龍、亀、虎、鳥が、それぞれ吠え、羽を拡げ、泳ぎ、蠢いている。もちろん、東西南北も意識されていて、四つに区分する延段は直角には交叉させていない。交叉する箇所は小堀遠州的手法で筋違いにずらしている。しかも、延段は異なった材質で構成されている。真行草なのだろうか。
    さっそくカメラを取りだした重森三明氏は、アングルを探す。集中のために目が据わって見える。それまでの笑顔も言葉もなくなった。祖父である三玲氏の美と感性の世界に一気に入り込んでしまった。
    こうなると、こちらの二人は、三明氏の動きにあわせて、三明氏が期待しているであろう動きをするしかない。箒如を借りて庭を掃き、雨露を借りてきて水を撒き、みごとな大輪をつけたたくさんの菊の大鉢は、フレームに入るから邪魔だというので動かす。本堂の床下の梯子も写りこまないように運び出す。庭を取り囲む樹木のうちの1本の落葉樹が大きく枝を張り、爽やかに紅葉していた。三明氏はこちらの意をくんで、「紅葉と一緒に撮っておきましたから」。
    9時半から撮影を開始してそのまま。お昼もいらないという。ほんとうに寒い1日、この日から私は風邪で苦しむことになる。耐えきれずに、車を走らせてコンビニに。撮影を終わってから地元の料理をと楽しみにしていたから、おにぎりと菓子パンにしたのだが、撮影終了は5時。暗くなってしまった。
    午後、撮影は三明氏にまかせて、お寺の裏にある磐座の探検に出かけることにする。観光開発なのか、地元のレクリエーョンの場なのか、道にそって桜や紅葉が植えられている。それを過ぎると杉木立。道には、まだ新しいシカとイノシシの蹄のあとが点々と残る。地面を掘って土をまき散らした箇所もたくさんある。ミミズを探したあとだ。今年はドングリが少なく、食べ物に困っているそうな。ご住職の話だと、最近はクマまで出没するとか。すこし不気味だが、見通しがよいことを安心材料に大きく蛇行する山道を登る。広く、ゆっくりとした傾斜の山道は、かつては切り出した木材を運ぶ「木馬(きんま)」道であったと推測させる。むかしの「修羅」のように、木材を積んだ重いソリを枕木状に敷いた丸太の上を滑らせるようにして運ぶのが木馬。
    15分ほど歩いて、まだ岩は見えぬのかと内心不安になりかけたとき、道端に突き出して鎮座する巨石が見える。岩に登り下を眺めると市島の端から端まで展望できる。なんと磐座の上部に登っていたのだ。まさに絶景。たまたま下から磐座を見上げた人がいれば、どう見えているだろうか。とはいえ、高所恐怖症の私には真下は見られない。道を戻って分かれ道を下りの方向に進むと巨岩の下に着く。朽ちかけたお堂も設けてある。やはり長く信仰の対象だったようだ。
    夕暮れに近くなってようやく、三明氏は撮影終了。こちらは、石像寺と篠山にある四つの三玲の庭の一つか二つは撮影または下見ができると踏んでいたのだが……。
    石像寺を出て車を走らせはじめると、もうライトを点灯しなくてはならないほど。ようやく篠山に到着。篠山城の家老職の家につくった庭は、いまは篠山観光ホテル。市役所のほぼ向かいにあるりっぱな門は、武家屋敷の名残を留めている。ところが、ロビーに燈は点いているものの、人気はなし。りっぱな調度品やら陶器などが飾ってあるのにだれ一人いない。宿泊客がいないことを理由に従業員はサボタージュしているらしい。あきらめて次の目的地にむかう。
    そこから30分、ようやくたどり着いた庭は神社の社務所の裏手にあるが、いまは管理人の住まい。暗闇のなかを裏にまわるものの、暗闇に三玲らしい岩が黒い影のようにニョキニョキと立って、周囲を白い曲線が飾っている。そんな庭の存在だけを確かめておしまい。日を改めるしかない。
    山道を亀岡市にむかって帰路につくことにする。三明氏の労苦をビールでねぎらおうと酒屋を探して走るのだが、一時間走っても見つからない。山中だからいたしかたない。睡魔が襲った三明氏は、後部のシートに沈む。疲れが一気に出たようだ。ようやくコンビニが見つかったのは亀岡の市内に入ってから。三明氏が最近気に入っている濡れ煎餅をつまみに発泡酒をゴクン。あっというまに500ミリリットルを飲み干した。
    帰宅できたのは、もう10時に近かった。

    | スタッフ日記 | 16:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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